転職前に知っておきたい 基本知識

内定辞退とは

内定辞退とは、採用活動で会社が内定通知を出し、本人も一度承諾した就職を、本人の都合で取り消すことをいう。労働法的に内定とは、求人への採用希望者の応募によって雇用契約の申し込みが成立し、会社が内定通知を出したときにそれが承諾されたとする。さらに応募者が内定承諾書を出した時点で、雇用契約が成立されたとする。よって内定辞退は一度成立した雇用契約を不履行したことになる。しかし、就職の自由は憲法第22条で定められている「職業選択の自由」に保護されておりこちらが優先される。通常会社から本人に賠償が求められることはないが、入社直前に内定辞退した場合、本人のために行なった入社前研修の費用や本人のために準備した備品の費用などが損害賠償の対象になる場合がある。 外為、ナポレオン1世が皇帝に即位。ナポレオンはアウステルリッツの戦い・トラファルガーの海戦・ロシア遠征など、欧州諸国に数々の戦争を仕掛けた。この一連の戦争をナポレオン戦争という。しかしナポレオンはライプツィヒの戦いに敗れ1814年に退位する。戦後処理のためにウィーン会議が開かれた。ウィーン会議は、欧州を1792年以前の状況に戻す正統主義が主な内容で、フランスにブルボン家が王として復位することになった。1815年、エルバ島から脱出し、パリに戻ったナポレオン1世が復位。しかしワーテルローの戦いで完敗。ナポレオン1世は再び退位した(百日天下)。 ナポレオン1世の失脚後、ルイ16世の弟であるルイ18世がフランス国王に即位した。ナポレオンが一旦エルバ島を脱出して復権すると亡命するが、ナポレオンの最終的失脚にともなって復位した。このブルボン家の復古は、ウィーン議定書で諸外国によって承認された。しかし、ジャンヌ・ダルクの登場を契機として戦況は逆転へとむかい、最終的にはドーヴァー海峡に近いカレーを除く大陸領土をフランスが制圧して終わった。長期にわたる戦乱は封建諸侯の没落を招いたほか、戦争予算を工面する必要から官僚制の整備が図られ、王権の強化がさらに進んだ。 サン・バルテルミの虐殺15世紀末、シャルル8世はイタリアへの勢力拡大を図ってイタリア戦争を引き起こした。これに対してハプスブルク家も対抗して出兵したことが、18世紀半ばまで続くフランス王家(ヴァロワ家、ブルボン家)とハプスブルク家の間の対立の端緒となった。16世紀前半、神聖ローマ皇帝の座をねらったが叶わなかったフランソワ1世は、当時ハプスブルク家と対立していたオスマン帝国のスルタンスレイマン1世との連携まで行って、ハプスブルク家の皇帝カール5世と抗争を続けたが、結局はハプスブルク家優位のままイタリア戦争は終結した(カトー・カンブレジ条約)。16世紀後半になると、既にスイスのジュネーヴで高まっていたカルヴァン派の影響がフランス国内にも及び、ユグノー(カルヴァン派)の対立が深まり、30年以上にわたる内戦となったユグノー戦争が勃発した。1572年のサン・バルテルミの虐殺に見られるように、新教・旧教両勢力の対立は先鋭化していき、ついに1589年にはフランス王アンリ3世がパリで暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した。現在のポルトガル共和国の領域で展開した歴史である。古代にはローマ帝国の支配をうけ、中世にはゴート人、イスラム勢力の支配を受けた。レコンキスタの進行した、12世紀にポルトガル王国が成立し、13世紀にはほぼ現在の領域が確定した。その後、海外へと植民地を獲得して隆盛を極めたのち、ナポレオン戦争で王制は動揺した。近代には共和制に移り、さらに独裁政権、無血クーデターによる民主化と激動の歴史を歩んだ。なお、ポルトガルの海外における発展はポルトガル海上帝国に記す。この地域には新石器時代の紀元前4500年頃には人が定住していた。ケルト人系のルシタニ族と呼ばれる先住民が独自の文化をもって暮らしていたが、紀元前12世紀にはフェニキア人が沿岸部に到来し、続いて紀元前8世紀ごろにはギリシア人が植民した。古代ローマとカルタゴの間でポエニ戦争がはじまるとイベリア半島はカルタゴの軍事拠点となった。ポエニ戦争が終結すると、ローマはすでに属州にしているヒスパニアに続いてイベリア半島奥地へも征服を展開し、ルシタニ族は抵抗したがBC139年には族長ヴィリアトゥスが殺され、ローマの征服は完了。「属州ルシタニア」となった。 不動産の初頭には衰退の進んだローマではゲルマン人の反乱が相次ぎ、彼らはローマに侵入してきた。属州ルシタニアにもスエビ族、アラン族などが侵入して王国を建設した。その後西ゴート人がイベリア半島全域に王国を建設し、この時期にキリスト教も国教とされ繁栄した。7世紀にイスラム教のもとに結束したアラブ人が各地へと征服戦争を展開し始めると、彼らは北アフリカからジブラルタル海峡を渡り、イベリア半島に侵攻し西ゴート王国を滅ぼした。以後、後ウマイヤ朝などイスラム勢力の支配が長く続くが、キリスト教勢力は山間部などに小王国を建設し、捲土重来を企図していた。 10世紀頃からレオン王国、アストゥリアス王国などがレコンキスタ(ポルトガル語ではルコンキシュタ)と呼ばれる「国土回復運動」を展開し始めた。1095年、カスティーリャ・レオン連合王国のアルフォンソ6世は、娘婿でフランス王族ブルゴーニュ家のアンリ・ド・ブルゴーニュ(エンリケ・デ・ボルゴーニャ)にポルトゥカーレ伯領を与えた。これがポルトガルの起源である。 アンリの子エンリケスは、宗主国カスティーリャ・レオン連合王国と戦い、1129年にポルトゥカーレ公として自立した。エンリケスは1139年のオーリッケの戦いでムラービト朝軍に大勝したのを機に独立を宣言、ポルトガル王アフォンソ1世を自称した。ローマ教皇の口添えもあり、カスティーリャ王国は1143年にこれを承認、ポルトガル王国が成立した。ポルトガル最初の王朝ブルゴーニュ王朝である。1179年に教皇アレクサンデル3世から正式な承認を得て、ポルトガル王国は国際的に認められた。 1147年にアフォンソ1世は、第2回十字軍のイングランドからの分派の助けを得てリスボンを攻略し、一挙に版図を拡大した。1162年にはベジャが、1166年にはエヴォラが彼の統治下に入った。その後もレコンキスタは進められ、13世紀中頃にはイスラム勢力を駆逐し、現在の領土を形作った。 レコンキスタ完成後、ポルトガルでは商業や学芸が盛んとなった。リスボンは北海と地中海を結ぶ交易拠点として栄えた。1290年には、ディニス1世によってコインブラ大学が設立された。 FXのペストの流行はポルトガルに危機をもたらした。1358年にブルゴーニュ家が断絶すると、ジョアン1世がアヴィシュ朝を開いた。ジョアン1世は交易に力をいれ、子のエンリケ航海王子に北アフリカのセウタを占拠させた。エンリケ航海王子はアフリカ航路の開拓に力を入れ、バルトロメウ・ディアスによる喜望峰到達を実現させた。ジョアン2世の時代にはヴァスコ・ダ・ガマによってインド航路が開かれ、カブラルがブラジルに到達した。その後香料諸島や日本へも進出し、ポルトガルは東方貿易で大いに繁栄した。1559年には、イエズス会によってエヴォラ大学が創設された。イエズス会の影響の下、エヴォラは対抗改革の中心となり、ここで教育を受けた多くの宣教師たちが布教のために世界へ渡って行った。 1600年のヨーロッパ1580年にアヴィシュ家が断絶するとスペイン王フェリペ2世がポルトガル王となり、事実上スペインの支配下に置かれた。この結果多くの植民地を失い衰退したが、1640年には独立を回復した(ブラガンサ王朝)。その後ジョアン3世、ジョアン4世の頃にポルトガルは植民地経営などに力を入れ、往時の繁栄を取り戻した。 18世紀末から19世紀初頭における、フランス革命及びナポレオン戦争と続くヨーロッパの混乱はポルトガルにも波及した。ナポレオン1世は大陸封鎖令に従わないポルトガルにフランス軍を侵攻させ、その結果ポルトガル王室はブラジルのリオ・デ・ジャネイロに遷都した。フランス軍はポルトガル占領に成功したが、イギリスの介入と民族主義の高まりによって内戦が勃発し「半島戦争」が展開された。