懲戒免職とは
公務員が違法行為などを行なった際に免職させられること。公務員による公金横領などの不正で新聞やテレビでこの言葉を耳にすることが多い。一般の企業の懲戒解雇に該当する。懲戒解雇とは、就業規則に定められた懲戒事項に該当する職場の秩序違反に対して行なわれる解雇。通常、退職金なども支給されない。懲戒処分には秩序違反の度合いによって、次のような処分の方法がある。訓戒とは、会社に始末書を提出させることをいう。減給は賃金を減らすこと、出勤停止は一定期間就労を停止する。その間の賃金は支払われない。懲戒休職は、一定期間就業させないことをいう。諭旨解雇は退職を勧告することをいう。
為替は、バルト人(バルト語派)の一派で、ドイツ騎士団を初めとする北方十字軍との抗争の中で団結して行った。 13世紀にキリスト教化を目論むドイツ騎士団に一時征服されたが、1236年の戦いで彼らの進出を食い止め、ミンダウカスのもと最初の統一を成し遂げリトアニア大公国を成立させた。
14世紀、ミンダウガスの孫、ゲディミナスは東欧に勢力を伸ばし、現在のベラルーシ、ウクライナまで拡大していった。また、首都ヴィリニュスを建設した。
その後ドイツ騎士団との抗争は続き、同じ様に十字軍に苦しめられていたポーランド王国と接近して行った。
1386年にリトアニア大公ヨガイラは、ポーランド王国の女王ヤドヴィガと結婚、ローマ・カトリックに改宗すると同時にポーランド王に迎えられた(ポーランド・リトアニア連合)。リトアニア大公国は、初期はポーランド王国と連合国家(同君連合)として対等な地位を築いた。1410年、ポーランド・リトアニア連合は一致してドイツ騎士団を破り(ジャルギリスの戦い)、両国は、東欧の大国として君臨した。しかし、リトアニア人の勢力は徐々に弱まり、16世紀中葉に開始されたリヴォニア戦争において、ポーランド王の野心によって1569年、ルブリン合同が成立され、リトアニアは、自治権(公国の消滅)を無くし、ポーランドに従属する事となった。
外貨預金は弱体化し、18世紀初頭の大北方戦争によって、ポーランドと共にスウェーデンの支配下に置かれたが、スウェーデンの敗北により、再びポーランドの支配下に戻った。しかし、ポーランドの衰弱は、近隣諸国の介入を招き、ロシア帝国やプロイセン王国の影響力が高まり、1772年の第一次ポーランド分割の後、リトアニアもその分割の脅威にさらされる事となった。
1795年のポーランド分割で国土の大部分はロシア帝国に組み込まれた。一時ナポレオン1世率いるフランス帝国軍に占領される。ナポレオンの敗退後、再びロシア帝国に編入され、ロシア同化政策を受ける。 19世紀になると民族主義が高まり、ポーランド人とともに2回蜂起するが鎮圧される。日露戦争によって引き起こされた1905年のロシア第一革命の際にはリトアニアは自治権を要求した。
第一次世界大戦が始まると、1915年、ドイツ帝国に占領された。リトアニア人住民はドイツ軍に対し抵抗運動を展開したが、1917年ロシア革命が起こりソ連が成立すると事態はより複雑化し、リトアニア人住民とドイツ軍、ソ連赤軍、それにロシア白軍や、さらにはポーランド・リトアニア連合の復活を望んだポーランド人住民が入り乱れ、戦いが繰り広げられた。リトアニアはドイツ軍占領下の1918年2月16日、独立を宣言[1]、しかしその後もリトアニア人住民は戦いを余儀なくされた。
IPOは諸外国と戦いながらも、1920年3月、にリトアニア共和国(第一次)として独立を達成した(ヨーロッパにおける民族自決)。戦いは1922年まで続く。旧都ヴィリニュスはポーランド領となり、カウナスが首都とされた。 しかし民主的政権運営は長くは続かず、1926年に軍事クーデターが勃発。アンターナス・スメトナの独裁政権が成立した。その一方でポーランド・ドイツ・ソ連との紛争も絶えず、1939年にナチス・ドイツの干渉によってバルト海の港湾都市メーメルを失う。更に同年ヒトラー(独)とスターリン(ソ連)の間で結ばれた独ソ不可侵条約の付属秘密議定書で、ドイツはリトアニアをはじめバルト三国・フィンランドをソ連のものと認めてしまい、リトアニアの命運は決まった。
ナチス・ドイツのポーランド侵入によって第二次世界大戦が始まると1940年にソ連に併合された。その経緯は次のようなものである。
ソ連は、自国の国境警備隊兵士が誘拐され、それに関わったとされるリトアニアの政治家の追放、投獄を要求して、リトアニアに対し最後通牒を突きつけたのである。(この誘拐事件はソ連側の自作自演と考えられている。)これを口実にソ連軍はリトアニア領内に入れようとした。
スメトナ大統領は主戦論を唱えたが、政権内部はソ連の要求を受け入れるのが大勢となった。1940年6月15日、ソ連軍15個師団15万人が無抵抗のリトアニアに進駐し、辞任したスメトナに代わりアンタナス・マーキス首相が大統領に就任した。
ソ連のリトアニア駐在公使ウラジミール・デカノゾフはリトアニアの政治に介入し、親ソ派のユースタス・パレツキス政権を樹立する。政権は詩人や歌手などリトアニアの有名人で構成され、首相の選任はリトアニア憲法の手続きによらずに行われた。
7月にはリトアニア共産党の候補しか立候補できない選挙により、人民議会が構成される。人民議会は7月21日リトアニアのソビエト連邦加盟を宣言、8月3日、ソ連最高会議はこれを許可する。こうしてリトアニアはソ連を構成する連邦構成共和国の一つとなった。(リトアニア・ソビエト社会主義共和国)
株の日本の領事、杉原千畝がユダヤ人に大量のビザを発給したのは1940年7月のことである。
ソ連は3500人のリトアニア人をシベリアなどに追放し、数千人が殺された。リトアニア各地で40以上の大量虐殺事件が起きている。一方、独立を目指す地下活動も始まった。
1941年6月22日、ドイツはソ連に侵入した。これに乗じてリトアニアは独立を宣言、しかし、独軍が進駐すると、少しずつ、この政府の権限を奪っていった。この政府は1941年8月7日、解体された。独軍の占領下ではユダヤ人の虐殺も行われた。1944年ソ連は再びリトアニアを占領、ヤルタ会談、ポツダム会談で英米にリトアニアがソ連加盟の共和国であることを認めさせた。
1942年から1952年にかけて、スターリン政権下でリトアニア人のシベリア追放政策が再開される。公式統計によると、この時期、12万人以上が追放にあっている。ソ連に対する抵抗活動も続き、最後のパルチザンが戦闘死したのは1965年になってのことである。スターリンはリトアニア人以外の人々、特にロシア人のリトアニア入植を進め、工業化を図った。
ゴルバチョフがソ連共産党第一書記になり、いわゆるペレストロイカが始まると、1988年民族組織「サユディス」(「運動」の意)が組織され、ラトビア、エストニアなどと連携して独立運動を進める。独ソ不可侵条約50周年を迎えた1989年にはヴィリニュス-リガ-タリンを結んで600キロにわたる、人間の鎖(バルトの道)が形成され、世界に独立を訴えた。1990年3月、サユディスが選挙に圧勝すると、非共産党員としてはじめて共和国最高会議議長に就任したランズベルギスは11日、ソ連連邦構成共和国の中でいち早く独立を宣言。1991年1月、ゴルバチョフ政権は武力を投入して放送局やテレビ塔を占拠、非武装の市民14名が死亡し、700人が負傷した。この模様は日本テレビのドキュメンタリー取材で、議会周辺の模様が日本で後に放送された。(1991年血の日曜日事件) しかし、ソ連8月クーデターが失敗すると、各国が独立を承認、9月6日についにソビエト連邦も正式に承認し、実質的独立を達成した。ソ連はその年の12月、消滅した。